太平洋戦争終結後、野村駿吉は太平洋岸の石油精製設備再開に関与し、その際に日米の石油会社とGHQとの架け橋となった。また、鳩山一郎(第52-54内閣総理大臣)の依頼を受け吉田茂(第45・48-51内閣総理大臣代)の政界への担ぎ出しに成功し、昭和21年(1946年)の第一次吉田内閣の発足に貢献した人物でもある。
また、野村駿吉は「ゴルフの国際人」としても知られ、現代日本ゴルフの発展に寄与。昭和2年(1927年)に日本アマチュアゴルフ選手権競技に優勝。昭和10年(1935年)には、関東ゴルフ連盟を設立し、戦後は昭和23年(1948年)に東京ゴルフ倶楽部理事長に就任し、関東ゴルフ連盟を再建し、JGA(日本ゴルフ協会)の復活に尽力。昭和32年(1957年)には霞ヶ関カンツリー倶楽部でのカナダカップ開催にも尽力し、日本のゴルフブームの礎を築く。現在、アジア太平洋地区で開催されている最大規模の公式アマチュアチーム選手権である「ノムラカップ」は、野村のゴルフ界への功績を称えた大会名となっている。
創業者野村駿吉のビジネスパーソンとしての『責務』と、そこでの人脈を活かした『挑戦』の二面性は、今なお野村事務所で受け継がれているフィロソフィーとなっている。