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創業者の紹介

日米石油事業の架け橋と生涯1万ラウンド

 野村事務所の創業者である野村駿吉は鉄道院副総裁(後の鉄道省)や運輸局長、満鉄総裁などを歴任し「日本の鉄道事業における先駆者」と言われた野村龍太郎の長男として明治22年(1889年)に東京で生を受ける。
  明治44年(1911年)に神戸高商(現・神戸大学)を卒業後、大正2年(1913年)三井物産に入社、ニューヨーク支店に勤務。この頃にトーマス・エジソンや当時ハーバード大学に籍を置いていた海軍中佐(後の海軍大将)山本五十六などと親交を結ぶ。また、野村はゴルフに情熱を傾け、その活動の幅を広げていくことになる。帰国後、大正11年(1922年)に三井物産を退社し、夫人の姻戚関係にあった松方幸次郎の懇請を受け、米国テキサス州において油田開発に従事。大正14年(1925年)には、当時石油事業への進出を企てていた三菱商事にスカウトされ、シアトル支店長に就任。米国アソシエーテッド石油との合併交渉にあたり、昭和6年(1931年)に同社との合併会社三菱石油(現・ENEOSの前身の一つ)の初代常務に就任した。昭和8年(1933年)三菱商事を退社し、同じく同社を退社した岩本勇と共に石油の輸入専門商社「合資会社野村事務所」を丸ビル内825号室に設立。
 太平洋戦争終結後、野村駿吉は太平洋岸の石油精製設備再開に関与し、その際に日米の石油会社とGHQとの架け橋となった。また、鳩山一郎(第52-54内閣総理大臣)の依頼を受け吉田茂(第45・48-51内閣総理大臣代)の政界への担ぎ出しに成功し、昭和21年(1946年)の第一次吉田内閣の発足に貢献した人物でもある。
 また、野村駿吉は「ゴルフの国際人」としても知られ、現代日本ゴルフの発展に寄与。昭和2年(1927年)に日本アマチュアゴルフ選手権競技に優勝。昭和10年(1935年)には、関東ゴルフ連盟を設立し、戦後は昭和23年(1948年)に東京ゴルフ倶楽部理事長に就任し、関東ゴルフ連盟を再建し、JGA(日本ゴルフ協会)の復活に尽力。昭和32年(1957年)には霞ヶ関カンツリー倶楽部でのカナダカップ開催にも尽力し、日本のゴルフブームの礎を築く。現在、アジア太平洋地区で開催されている最大規模の公式アマチュアチーム選手権である「ノムラカップ」は、野村のゴルフ界への功績を称えた大会名となっている。
  創業者野村駿吉のビジネスパーソンとしての『責務』と、そこでの人脈を活かした『挑戦』の二面性は、今なお野村事務所で受け継がれているフィロソフィーとなっている。
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